2025.11.04

親の高齢を間近に感じる私のリアル 〜“支える”と“働く”の間で気付くこと〜

こんにちは。編集部スタッフのNこと名取です。

来週、11月11日は「介護の日」。

今回のスタッフコラムでは、この日にちなみ、私自身の実生活の中で感じている“介護”についてお話ししたいと思います。

正直、「高齢」とは言っても、元気でよく喋る父や母が“要支援”とか“介護”とか、そんな言葉の対象になるとは、今もまだ現実味は薄いように感じます。

しかしながら、私の働き方や暮らしは、「何か」が少しずつ変わりはじめているようにも感じています。

少しずつ、静かに、始まった「支える日々」

私は父母と共に、実家で生活をしています。

両親とも、認知症でもなく、まだ足腰もしっかりしています。

ただ、病院の予約がスマホではうまく取れなくなってきたり、薬の管理が少しあやしくなってきたり……。

そんな“ちょっとした困りごと”が、日常の中にぽつぽつと現れはじめました。

最初は週に1回程度の買い物付き添いだけだったのが、次第に通院送迎、銀行手続き、役所への同行と、“私にしかできない”用事が増えていきました。

誰かに「介護をしてる」と胸を張って言うほどのことではない。

でも、確実に生活の中に“家族を支える時間”が増えていく。

それが、今の私の日常です。

仕事を理由に、心が離れてしまいそうなときもある

私の職場は各々の家庭の事情を汲んでいただける、理解のある職場ですが、もちろん、全て自由に時間を動かせるわけではありません。

親の通院のために午後半休を取ると、翌日は溜まった仕事でてんてこ舞い。

気がつくと、自分が体調を崩してしまいそうになっていることもあります。

何より辛いのは、「ああ、今日も父や母にちゃんと向き合えなかったな」「仕事を理由に逃げてしまったな」と思う瞬間です。

通院の車の中でスマホばかり見てしまったり、早く用事を済ませたくてつい返事が雑になってしまったり……。

そんな自分を責めたくなる気持ちと、「仕方ない」で済ませたい気持ちの間で揺れる日々。

“高齢の両親と共に生きる働き方”は、時間だけでなく、心の余裕も試されるのだと感じています。

「安心する」と言う父に救われた日

ある日、父がこんなことを言いました。

「仕事もあるだろうに。でも、居てくれると安心するよ。」

なんてことのない一言ですが、私はその言葉にものすごく救われました。

“やってあげている”つもりでいた私の中に、“一緒に過ごす時間を大切に思ってくれていた”父の気持ちがあったんだと気付いたからです。

それからは、できるだけ“義務”ではなく“対話”の時間になるように意識するようになりました。

通院の待ち時間にお互いの近況を話したり、昔の写真を見ながら思い出話をしたり。

忙しい中でも、そんな時間が少しずつ増えてきました。

「似て否なる」育児と介護のリアル

職業人として社会と関わる中で、時折「これって育児と同じように考えていいのかな」と思いを馳せるときがあります。

その時々に行き着くのは、育児と介護は「似ているようで、まったく違う」のだという考えです。

親の望む関わり方(意思)、兄弟親戚といった周囲との関係性(環境)、家族との距離感(生き様、価値観)……

あまりにも”個人ごと”過ぎるがゆえに、働く仲間には(仲間にこそ)言い出しにくい気がしています。

そして何より、子育ては“明るい話題”として共有しやすいけれど、介護は“ちょっと重たい話”に思われてしまうことが多い。

職場で言い出しにくいのは、その空気の違いもあるかもしれません。

ひとりで全部、抱え込まなくていい

高齢の家族を支えるといっても、全部を自分でやらなければならないわけではありません。

地域包括支援センターや、訪問看護、家事代行サービス──頼れるところは意外とたくさんあります。

私も、最初は「家族だから自分がやらなきゃ」と思い込んでいましたが、少しずつ人に頼ることで、父母との時間に心の余裕が生まれるようになりました。

結局のところ、自分自身が「元気でいること」が、子の立場としていちばん大切なことだと、今は思っています。

最後に──ゆるやかに、でも確実に訪れるそのときに向けて

父母をはじめ、家族全員、今も元気に過ごしています。

でも、年齢のことを考えれば、「この日常が永遠ではない」とどこかで感じています。

だからこそ、今できることを丁寧に、でも無理せず続けていきたい。

働きながらでも、父母と向き合える時間をつくっていきたい。

“介護”と“仕事”という言葉に捉われ過ぎず、
“家族として”“自分として”できることを、できる範囲で続けていく

それが今の、私なりの「親の高齢を間近に感じる、子のリアル」です。